大学院授業[2018]

東京大学大学院・総合文化研究科・超域文化科学専攻

文化人類学コース 開講授業 [2018年度]

岩本通弥 日常学としての民俗学:近代、文化的実践、日常生活という問題(Sセメスター)

近代、文化的実践、日常生活という問題を、柳田國男『明治大正史世相篇』(講談社学術文庫、1993=1931)を基軸に、小山静子『家庭の生成と女性の国民化』(勁草書房、1999)など、生活改善運動に関する諸論考とを、合わせ読むことで考えていく。柳田『明治大正史世相篇』の最終章は、「生活改善の目標」である。昭和6年という「農業恐慌」の真っ只中に刊行された本書を、歴史的社会的文化的な文脈の中で、再定位させることを目的とする。

岩本通弥 日常学としての民俗学:近代、文化的実践、日常生活という問題 (Aセメスター)

近代、文化的実践、日常生活という問題を、柳田國男『明治大正史世相篇』(講談社学術文庫、1993=1931)を基軸に、久井英輔の関連論文など、生活改善運動に関する諸論考とを、合わせ読むことで考えていく。柳田『明治大正史世相篇』の最終章は、「生活改善の目標」である。昭和6年という「農業恐慌」の真っ只中に刊行された本書を、歴史的社会的文化的な文脈の中で、再定位させることを目的とする。


福島真人 超データ社会の人類学/ビッグデータ化が、社会、文化、身体に与えるインパクトの比較研究

様々な形でのあふれかえる巨大データ(いわゆるビッグデータ)が、社会、経済、文化といった多くの領域に不可逆的な影響を与えるようになってきたと論じられて久しい。さらに近年では、AI、機械学習の急速な進化により、AIが人間知性を超える、いわゆるシンギュラリティといった世紀末的な予言や、自動化された社会と大量失業、経済格差の問題といった様々な論争を巻き起こしている Journal of Big Data, あるいはその社会版のJournal of Big Data and Societyといった国際誌が次々と刊行され、こうした超データ化の社会科学的意義が詳しく論じられるようになってきている.

だがその影響の顔貌は分野によって大きく異なる.例えば生命科学/医療では、ゲノム研究が加速化すると同時に、医療データのデジタル化、エビデンス(証拠)にもとづくEBM(Evidence-Based Medicine)も同時進行し、さらにそうした影響が個人の身体、自己イメージにも影響を与えつつある(いわゆるquantified self, 量化された自己論)といった議論すらある. 政策立案等でもこうしたエビテンスが求められる一方、将来予測やリスク管理もますますこうしたビッグデータによる未来像が用いられている傾向が強まっている.

他方、こうしたビッグデータ化への批判も先鋭化している. 社会学者ギデンスはこうした傾向を「未来の植民地化」と呼んでいるが、リスク管理への強迫は、こうしたデータ/シミュレーションの不確実性を曖昧にすると同時に、開かれた未来像を閉ざし、「現在」を圧迫する. データ化されない主観的、身体的経験は軽視されることになる. 更に勝手に個人情報を蓄積し、それを活用する企業に対して、プライバシー保護という倫理的問題も生じる.

実際、この背後にはデータ、あるいはエビデンスという概念がもつある種の構築性の問題がある.『生データとは語義矛盾』(Raw Data is an Oxymoron)という洋書のタイトルが示すように、データ(エビデンス)とは、複雑なプロセスを経た構築物であり、それは、知識・技術と社会/文化的な約束事の融合体である. 例えば身体化されたわざや技能、暗黙知がデータ化される場合、その何がデータ化されるのか、は現在のAI労働論争とも密接にかかわる. 知的生産性は、それを計る方法に依存する. 

さらに、前述したエビデンス論でも、EBMでカバーできない患者の主観的な経験を、患者の病の語りという形で補足する、Narrative Based Medicine(語り中心の医学) といった反動もある. われわれが知覚する環境も、こうした複雑な過程の影響をさけられない(例えば地震学における予知と予測の問題). 他方、海外では、文化人類学が行うような、質的調査はそのデータの主観性という点から調査許可そのものがおりにくくなっているという話もある. 加えて、こうした近未来をめぐる議論には、現状の動向を過大に喧伝する一種のハイプ(狂騒)的な面もあり、多くの新規技術が大げさに祭り挙げられるバブル的な側面も否定できない. 更に近年では偽データ問題も噴出し、問題は多岐にわたる.

この演習の目体は、こうした超データ化社会におけるデータやエビデンスという考えがもつ、文化社会的な特性、そしてそれが与える影響を、できるだけ多方面から議論しようとするものである.特にここでは、人類学、社会学的な観点を中心に、われわれの日常生活そのものに直接関係しうる問題で、近年ホットなテーマをいくつか取り上げて、その複雑な諸相を読み解く. 


福島真人 環境、生態、エコロジーー我々を取り巻く世界の文化人類学(科学技術社会学)

現在社会において、我々を取り巻く環境や生態の重要性が増しているというのは、近年の環境問題や地球温暖化といった議論からも明白である.他方人間を取り巻く環境との関わりというテーマは、単に狭い意味での「環境問題」に限定されるものではなく、文化や社会とは何なのかという問いに本来的に備わったものである.思想的にも、いわゆるエコロジーという考えが、単に環境保護という視点だけでなく、環境の中にある生体という意味で、「生態学的心理学」(ギブソン)、「精神の生態学」(ベートソン)等、あるいは「生物からみた世界(環世界)」(ユクスキュル)が「世界内存在」(ハイデガー)という概念に大きな影響を与えたといったことはよく知られている. 他方、運動としての「環境思想」(エコロジー)という考えは、そもそも環境とは何か、何をもって最適な環境/生態とみなすか、という点について、多くの論争を生んできた. その背後には、環境という概念そのものがもつ多様性、相互矛盾があり、それは近年の環境保護や、地球温暖化をめぐる様々な政治/科学的論争と密接にかかわっている.

本演習では、こうした環境(生態、エコロジー)を、特に思想、社会科学(文化人類学、社会学)、科学(科学技術社会学)の交差する側面として、そのいくつかの主要な論点を理解するための演習とする.他の似たような概念(例えば状況)と同様、環境をめぐる理解は多くの相互矛盾した理解と主張を含む.その問題点の大雑把な見取り図をえるのが本演習の目的である.

 

箭内匡 植物学から人類学へ——情動・主体性・デザイン

自然や環境という言葉から我々がまず想起するのは「緑」つまり植物である。人間の衣・食・住も本来は植物に全面的に依存するものだったし、人新世と呼ばれる今日でも、植物なしには食べるものもなく、呼吸すらできない。植物の生は、人間の生の無意識に属していると言えるかもしれない。

実際、植物の生についての理論化(リンネ、メンデル、ダーウィンの重要部分...)は、人間および生物一般についての考察の基盤になってきた。例えば、樹木/リゾーム、蘭と雀蜂の生成変化といったアイデア(ドゥルーズとガタリによる)は、現代世界を理解するための鍵概念として人類学にも大きな影響を及ぼしてきたが、これらも植物に関わるアイデアである。植物について考えることは、意外に、人間について考えることに通じるのである。植物学が特に近年の飛躍的な進展の中で明らかにしてきた様々なことは、植物のダイナミックな社会的生のあり方を明らかにし、人間と自然を根本的に再考するための興味深いヒントを与えている。

この授業では、人類学にとって有益と思われる範囲において——また人類学理論との対照も念頭に置きつつ——現代植物学の知見を学び(授業前半)、その中から人類学の今日的問題性について議論してみたい(授業後半)。授業後半の主な目的は、人間と植物の関係を論じることというよりは(それも含めてもよいが)、前半で学んだ植物学的知見に想を得ながら、情動・主体性・デザイン等について考えることである。

一見、人類学と全く無関係な場所から出発しながら、実質的に、現代人類学が直面している今日的問題にアプローチしようというのがこの授業のスタイルである。


箭内匡 自然経験の人類学

近年の人類学における自然/身体に関する議論の高まりを背景の一つとして、この授業では、アニミズムから(おそらく)ペイガニズムまで、さらに映画や芸術実践まで、広がりのある民族誌的テーマを扱いながら、身体による自然(人工物をも含む広義の自然)を受け止める、あるいはそれと関わってゆく経験についての人類学的考察を掘り下げる。


箭内匡 博士論文ライティングアップセミナー

文化人類学コースにおいて博士論文を書き上げるためのセミナー。フィールドワークを終え、博士論文を準備中、或いは執筆しつつある文化人類学コースの博士課程の大学院生のみを対象とする。発表者が博士論文のドラフトの一部を発表し、セミナー出席者からのコメントを受けることで、論文完成へとつなげることを目的とする。


田辺明生 ケアと情動の人類学:身体をめぐる欲望・倫理・政治

人間とはいかなる存在か。自律的な判断能力と意志をもつ個人こそが十全な人間であるという見解に対して、近年、人間の身体そして生命はそのなかに社会性や共同性をすでに/常に含んだものであることが指摘されるようになっ た。人文社会学における「情動論的転回」といわれる動きのなかで、人間の身体が他の身体やモノとのあいだにおいて触発して/されている響応関係に焦点が置かれるようになったのである。これは、個体の閉じられた意識や主体性を超え、さらには、主体と客体また心と身体といった二元論をこえて、生の流れに着目する学術動向と関わる。そのなかでケアについても、相手のニーズに応えようとする所作であるだけでなく、自己が相手の身体存在に巻き込まれ共鳴していくなかでつくられていく関係性でもあることが着目されている。

本授業では、主要な理論的著作と民族誌を参照しながら、ケアと情動という観点から、身体をめぐる欲望・倫理・政治といった問題について論じていく。具体的には特に、介護・老い・セクシュアリティ・臓器移植・生体認証といったトピックをとりあつかう。なお、医療人類学で著名なLawrence Cohen氏(カリフォルニア大学・バークレー校教授)が特任教授として授業後半に4回の特別講義をしてくださることになっている。


田辺明生 「非-未来」の人類学−−希望なき時代の希望を考える

いわゆるグローバル化の進む現代世界において、環境、政治、経済、社会、家族、すべては流動化し、不安定化している。安定のなかの進歩・拡大はもはや望むべくもない。そうした状況において、「今ここ」に喜びをみいだすか、それともやはり「未来」にかけるか、という二分法を越えて、わたしたちは、人間社会の歴史と現在そして将来展望についていかに語れるのであろうか。希望について論じることさえためらわれるような時代状況のなかで、それでもわたしたちはいかに意義ある生をいきようとできるのだろうか。

本授業では、未来/非-未来そして希望/絶望をめぐるさまざまな理論的立場を俯瞰しつつ、現代世界のさまざまな地域と状況における時間性のありかたを民族誌的に読み解いていく。扱う地域は、日本、インド、アフリカ、旧共産圏(旧ソ連・東欧)の予定である。これらの地域は、大ざっぱにいうならば、「失われた希望」(日本)、「未来への希望」(インド)、「やってこない未来」(アフリカ)、「錯綜する希望と絶望」(ポスト社会主義諸国)のようなかたちで、さまざまに異なる時間性の様相を示す。現在の地球社会における空間性と時間性のありかたの複数性・輻輳性についてミクロとマクロの双方のレベルで理解することをめざす。

 

渡邊日日 日本の民族誌を読む

これまでの(たいていは、英米系文化・社会)人類学の知見に基づき、英文で発表された日本に関する民族誌的研究に触れ、(1)民族誌を批判的に読む、(2)対象を「内から/外から」見ることを試みる、(3)用いられているデータとそこで考えるべき概念との関係を熟考することを学んでいく。


渡邊日日 文化人類学と哲学の間

人類学が「つかず離れず」の「微妙な」関係を伴ってきた最大の隣接領域は哲学だろう。「高貴なる野蛮人」モデルは多くの批判的思考の源泉の一つであったし、「百科全書」は、当時の学問と技術をめぐるフィールドワークの結果でもあった。未開社会に関するデータはマルクスに史的唯物論の物的証拠となり、その功罪の冷静な吟味がいまようやく可能になったレヴィ=ストロースは言うまでもなく現代思想の立役者の一人であった。一時期の流行の対象としてではなく、様々なる意匠の一モードとしてでもなく、哲学を人類学にとっての真剣な「討論相手」とするために、本ゼミでは主にTurner, Stephen P., & Mark W. Risjord, (eds.) [2007] Philosophy of Anthropology and Sociology, Amsterdam: North-Hollandを輪読していく。扱う章(トピック)については受講者との微調整もありうる。また、受講者の人数によっては、受講者の研究発表を、本ゼミの文脈に定位して組み合わせることも考えている。なお本ゼミでいう人類学とは、主に定性的データに立脚して具体的な民族誌的考察を通過した(実証主義的とまで言う必要はないにしても)人類学のことを指すゆえ、個々の民族誌を読むことを好んでこなかった受講者には「ツマラナイ」ゼミになることは大いにありうる。逆に、ある細部にこだわることがどういう風に議論の地平を拡張していくか、そうした「開眼の現場」を現出させてみたいと思っている。


関谷雄一 歴史の中の開発と文化(近代以降を中心に)

本講座では、「開発」を主権国家における同時代的な経済・社会面での開発という意味にとどめずに、人間の歴史が始まって以来、人間が自然や環境に働きかけながら、福利増進を目指してきた広い意味での開発ととらえながら考察をしていく。歴史の中において、開発と文化の問題群はどのように変遷してきたのか、先行研究を参照しつつ、議論をしていく。

近代植民地政策が実施された以降の世界を中心に、国・地域を超えて共通するテーマを人類学的観点から取り扱ってゆく。


関谷雄一 反「開発」の史的再検討

2018年Sセメスター開講「歴史の中の開発と文化」の続編的な内容。しかし今度はやや角度を変え、「開発」の歴史に抵抗してきた人々の生き方や思想に迫る。そうした反「開発」論的な議論や実践は今も様々な文脈で続けられており、開発の脱構築や見直し、そしてオルタナティブな開発・歴史の在り方を見出すことを可能にする地平へと人々を導いている。様々な反「開発」論を取り上げながら、体系的な理解を試みる。


津田浩司 共同性の人類学

「共同体」なるものが、「市民社会」の鏡像として、閉鎖的かつ同質的なものとして構築されたものであることが指摘されて久しい。それは、後者が「自由意志を持つ個人」を前提に据える一方、コミュナルなものがオリエンタリズム的機制により前者に追いやられたという事態を批判する論である。この指摘を踏まえ、「共同体/市民社会」、あるいは「構造/主体」などの安易な二元論に陥らないためには、自立した個人像を無批判に前提としないことはもとより、高度に抽象名詞化された「共同体」を所与化するのではなく、具体的な行為実践とそこから可能となる共同性の諸相を再検討する作業が必要になる。こうして対面関係を基盤とする相互行為へと着目することは、社会制度やイデオロギーによる統制・拘束された人間像を、よりダイナミックなものへと開くことに繋がるだろう。本講義では、これらのテーマをめぐって、主に文化人類学の関連論文を読み進めつつ参加者と討議をする。


津田浩司 宗教人類学を読む

「人類学において宗教がどのように論じられてきたかについて、教科書的に編まれた論集を読みながら種々の分析視角を養う。特に、具体的な民族誌的論文を読むことで、個別的事例から人類学的にいかなる知見を導き出せるかについて考えていきたい。


津田浩司 博士論文ライティングアップ・セミナー

文化人類学コースにおいて博士論文を書き上げるためのセミナー。フィールドワークを終え、博士論文を準備中、あるいは執筆しつつある文化人類学コースの博士課程の大学院生のみを対象とする。発表者が博士論文のドラフトの一部を発表し、セミナー出席者からのコメントを受けることで、論文完成へとつなげることを目的とする。


宮地隆廣 政治学における参加概念の検討

参加は公共空間の性格を決める概念であり、政府の決定が「国民不在である」という批判を受けることが多いように、集合的な決定において日常的に議論の対象となっている。この授業では、政治学の基本的テキストの講読からはじめて、最新の議論を批判的に扱うことを通じて、参加が含意する行動の多様性とその中に見出される意義や問題点を検討する。政治学では参加は民主主義との関連で議論されることがほとんどであるため、授業で用いられる教材もまた民主主義を扱うことがほとんどとなる。


宮地隆廣 参加概念の再検討

参加は公共空間の性格を決める概念であり、政府の決定が「国民不在である」という批判を受けることが多いように、集合的な決定において日常的に議論の対象となっている。Sセメスターでは参加概念を集中的に扱う政治学分野に関連する書籍を講読したが、この授業ではそれ以外の分野にカテゴライズされる論者を扱うが、参加に最も強い関心を寄せるのは開発分野であることから、この授業でもそれに関連するテキストを集中的に読み、議論する。

中心となるテキストはCornwall, Andrea. ed. 2011. The Participation Reader. London: Zed books. に収められている論文である。これらに関連し、近年発表された重要な論文も必要に応じて扱う予定である。


名和克郎 言語人類学入門

社会・文化人類学者が行うフィールドワークにおいて通例大きな比重を占めるのが、言語を用いた情報の収集である。その過程で得られる「現地語」による資料は、言語学者の抽出する文法にも、翻訳された意味にも解消されない様々な情報を含み、多様な分析に対して開かれている。ここでは、音声学、音素論から会話分析に至る言語データの様々な取扱い方を、出来る限り具体的な形で紹介すると共に、「言語人類学」と大まかに総称し得る一連の研究を、社会言語学をはじめ周辺諸学の動向も踏まえつつ検討し、人々が行う言語を用いたやりとりから見えてくる言語と社会・文化をめぐる複雑な関係について議論していきたい。


名和克郎 儀礼論再考〜民族誌と理論

儀礼は、文化人類学、社会人類学の研究史において、ほぼ常に主要な関心領域の一つであった。だが、個々の人類学者が儀礼という語を用いる際に念頭に置いた事象や、この語を通して現象を分析することにより見いだそうとしたことには、かなりのぶれが存在する。学説史的に見れば、機能主義、構造主義、象徴分析及びそれらに対する批判、儀礼化論といった展開に加え、近年では認知科学、文献学など人類学者が通常行うフィールドワークでとは異なるアプローチを行う学問分野からの貢献も目立つ。ここでは、主に英語及び日本語で書かれた、儀礼に関する人類学及び周辺領域の重要な民族誌及び理論書を検討することを通じて、これまで人類学者は「儀礼」なる語によって何を議論し、何を議論し損ねてきたのか、現在「儀礼」なる語で何を論じうるのかについて、議論していきたい。


藏本龍介 宗教と食

生物学的にいえば、人間は雑食動物である。つまり人間は多様な物質を体内に取り込むことによって、必要な栄養をとることができる。しかし現実には、人間の食生活はきわめて多様である。その理由の一つは、「食べること」や「食物」の意味(価値)づけ方が、文化によって、そして究極的には個々人によって、異なっているからである。つまり人間は、自分の身体・生命を維持するということ以上の何かを実現するために食べているといえる。

それではこの「食べる」という営みは、人間の生き方をいかに形づくっているのか。この問題について本授業では、諸文献の購読を通じて、特に宗教(教義、世界観、儀礼など)との関わりに注目して分析する。具体的には、食と文化の関係を論じている人類学的研究、特定のフィールドに基づいた民族誌的研究、歴史的・思想史的研究などを取り上げる。受講者からの文献の提案も歓迎する。


森山工 「方法」としてのフィールドワーク

フィールドワークによって質的データを収集するということは、文化人類学という学的営為の中核をなしている。かつて岩田慶治は、フィールドワークというアプローチを、「(1)とびこむ、(2)近づく、(3)もっと近づく、(4)相手の立場に立つ、(5)ともに自由になる」こととして提示した。では、このプロセスを「方法」として位置づけようとしたとき、フィールドワークのどの部分が「方法化」に馴染み、どの部分が馴染まないのか。これを検討する中で、むしろ「方法化」に馴染まない部分を自覚的に取り出すことによって、文化人類学的なフィールドワークと、そこで構築される他者理解の一つのありようについて考察する。


森山工 贈与することと譲渡できないもの

マルセル・モースがその「贈与論」において論じたように、贈与は社会的存在としての人間の存在論的基底に存する事象である。その一方で、人間の社会性のなかには、決して他者に贈与できないもの、他者に譲渡できないものがある。贈与が他者への〈開かれ〉と相即的であり、他者とのつながりをもたらすものであるとするなら、譲渡できないものは自己の存立なり自立なりと深くかかわっている。本授業では文化人類学の立場に立ちつつ、社会的存在としての人間にとって贈与がもつ根源的意味について確認した上で、譲渡できないものがどのような社会的な現れをとるのかについて、ニューギニアのバルヤ社会においてモーリス・ゴドリエが観察した事例を検討する。それを通じて、社会の自立性と共同性について考察を施すことが本授業の目標である。

  

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