進学を考えている人へ
東京大学文化人類学研究室において研究を行うこと、つまり、授業・研究指導・さまざまな意見交換を通じて教員・学生が共に学んでいく過程とは、一体どのようなものなのでしょうか。以下、教員からのメッセージを集めてみました(メッセージの末尾に教員名が付されている場合、クリックすると当該教員のページに飛びます)。
1. 東大文化人類学コースでの教育と研究 (全員より)
東大文化人類学研究室は、文化人類学・民俗学・科学技術社会論・比較政治学・歴史学の研究者が協働し、合同でゼミを運営する、国内でもめずらしい学際的な研究室です。
各教員の問題関心や研究のスタイル、指導のスタイルも様々です(→スタッフ全員の研究領域はこちらで一覧できます)。ご関心に応じて、ぜひ複数の教員のページをのぞいて見てください。
授業では、各教員が個別ゼミのほか、人類学や関連分野の基礎を固める「入門ゼミ」を開講しています。文化人類学を体系的に学んでいない方にも開かれたカリキュラムとなっているところが特長です。また、コース教員と学生が全員集まって行う「水曜ゼミ」では、多様な専門の教員・院生と幅広く議論することができます。
この研究室で出来ることもまた多様です。スタッフの多くが専門とする文化人類学の領域でも、近年「フィールドワーク」のやり方は著しく多様化していますし、また、主題ないし分野(特に歴史に関わるもの)により、フィールドワーク以外の手法で研究を進めることも可能です。
2. 学問的な気づき――「近さ」と「遠さ」
文化人類学は間口がひろい分野です。資本主義、科学技術、グローバリゼーションといった大きな現象について文化人類学的に考える人もいれば、フィールドで係り合いになったある知人、彼女と交わした会話や、その単独的な経験について人類学的に考えようとする人もいます。(中村)
身の回りの事からヒントを得て、どんなことでも深く、広く検討していけるのが人類学のいいところです。(浜田)
「文化人類学」は,ある違和感・ずれの感覚に気づくところから出発します。そして,その感じの発生源――自分のなかか,あるいは地理的に・時間的に遠いところか――はともかくとして,そこを出発点にして,本を読んだり調べに出かけたりします。(渡邊)
民俗学の場合、研究者・研究対象・読者の3者が非常に近いものとして想像されることがあり、そこに民俗学の面白さと難しさがあります。そこでは「フィールドのなかで考える」ことがとても重要になります。自分にとって馴染みの深い人たちについての研究をおこなう場合も、それを「私たち」の話としてすぐに一般化してしまわず、あくまでも具体的などこかの誰かの話であることに強くこだわる。それが、人間についてのよりきめ細やかでより深い理解につながると思っています。(塚原)
歴史学において私が専門にしてきたイギリス近世は、現在につながるさまざまな価値観が現われはじめた時代であり、同時に、今の時代には失われてしまった独特の規範と秩序によって規定された世界です。異文化としての過去を探求することが、21世紀の私たちを無意識のうちに規定している枠組みを相対化し、現代社会のさまざまな側面を批判的に考える力をつける一助となることを期待しています。(後藤)
私が理解する文化人類学という学問は、現象を前にして(時にそれに圧倒されつつ)、何とか頭を使いながら同時に手足をばたばた動かし、複数の視点を往還するなかで、少しずつその全体を捉えたいと試みを重ねるものです。何かが分かるとまた新たな問いが次々と出てくるわけですが、それは歩みを進めていく過程で都度新たな地平が見えてくる、そういうわくわくするような旅でもあります。(津田)
私にとって人類学的フィールドワークとは、遠く離れていたり、属するコミュニティが異なったりして、それまでふかく交わることのなかった人々と、互いに係り合いになりながら、生を部分的にでも分かち合うような経験です。同じように些細で、複雑で、とりとめのない日常を過ごしている人々――でも、その些細な日々のふるまい、他者や周囲の環境とのかかわりかた、これらを綜合したり、やりすごしたり、表現したりする方法は、それまでの自分にない気づきをもたらし、ときにその基盤を揺るがしたりもします。(中村)
私にとって文化人類学とは、他者と共に生き、他者と共に変化していく実践です。仏教を研究してきた私の場合、多くの出家者や仏教徒との出会いが、私を形づくってくれています。これからもどんな出会いがあるか楽しみです。(藏本)
3. 様々な研究領域・研究テーマ
私は、現代インドネシアの「華人」を研究対象としつつ、政治・社会環境が大きく変化する今日の世界において、日々の暮らしの中で人々が自らの民族性をいかに意識し、経験し、表出するかを明らかにしようとしてきました。そうした場所では、マクロな制度や歴史、それに個々の事象を取り巻くミクロな文脈が複雑に絡み合っています。(津田)
比較政治学では、政府にまつわる人の動きにパズル――直観的に理解できない現象――を見出していきます。例えば、独裁者はなぜ選挙を行うのかという問いは代表的なパズルとして知られています。自分にとっても、他の人にとってもわからないことがある時、それは時間をかけて一緒に考えてみたい問いとなります。(宮地)
私にとって民俗学とは、身近な生活をこれまでとは少しだけ違う形で見せてくれる学問です。民俗学者たちはこれまで、地理的な近しさにもかかわらず人が生きる形がこんなにも異なっているということを、具体的に、そしてできるだけ等身大の言葉で語ろうとしてきました。(塚原)
私は博士課程で、人間・機械のインターフェースの工学研究者を対象とした科学技術人類学の研究を通じ、「人間とはなにか」という問いに取り組みました。彼らがどのようにして特定の人間の能力を拡張する技術を想像し、発明し、実験し、開発していったのかを調査し、彼らが未来、社会と技術、身体、そして自分自身をどのように見ていたかを理解しようとしました。(オオツキ)
私はグローバル化が進む今日的状況の中で、人々の手によっていかに貧困から脱するための開発や災害からの復興が進められ、社会が変わっていくのかについて、アフリカの農村や日本の災害被災地を対象に研究してきました。(関谷)
世界がどのように成り立っており、何になろうとしているのか。医療・環境・身体に注目しながら、この世界の生成を化学物質のレベルに焦点を当てて考えています。最近は、認識の化学化/脱化学化という発想(例えば「炭水化物」と「うどん」のいずれに照準を絞っているか) の洗練を目指しています。皆さんとともにこれからの人類学の可能性を探っていきたいと思っています。(浜田)
歴史学と人類学という二つの学問領域はより緊密な形で新たな接点を見出しつつあります。なかでも感情や身体というテーマは、歴史学と人類学がそれぞれのやり方で「自然」と「文化」の関係を問い直すなかで、両者が再び出会う場となりつつあると感じています。(後藤)
4. 大学院で学ぶということ
昔、私が大学院進学を考えている際に、その時の指導教員から「大学院は「研究者」になる場であるだけでなく、プロのアカデミックとしてのあり方を学ぶ場でもある」と教えられました。特に文化人類学の大学院は、周囲の人々や物、言葉や行動に対する倫理的な感受性をさらに発展させ、あらゆるものが相互に関係し合い、構築し合っていることを知覚するためのセンスを磨き、自身の身体で経験した世界を他の人と共有できる形で翻訳し、書く情熱を育む場です。また博士課程では、協力し合える人類学者や他の学者のコミュニティの一員となり、そのコミュニティの活力を維持するために努力を費やすことを学びます。(オオツキ)
私を含め多くの人類学者は、自分の持っていた前提や、先行研究との対話の中で構築した仮説が、何らかの「現実」によって思わぬ形で覆される、という経験を通して進み続けることを、今でも一つの理想として共有しているのではないかと思っています。(名和)
文化人類学の大学院には、何が起きているのか、そしてなぜ起きているのかを書くことについて、とことん考える人が集まっています。テーマは人それぞれですが、この点に関するこだわりは共有されています。こうした意識を持った人々と過ごす時間は、新しいものの見方や表現の仕方に気づかされる、刺激に満ちたものになるでしょう。みなさんが持っているみずみずしい感性に触れられることを楽しみにしています。(宮地)
私は学部時代からずっと仏教について研究をしています。ただ、なぜ仏教に関心があるのか、自分でもよくわかっていません。結局のところ、なぜかわからないが魅力を感じてしまった、知りたいと思ってしまった、というだけで研究を続けているような気がします。(藏本)
私たちは混沌とした世界を生きています。皆さんと議論しながら、少しでもほんとうのことに近づこうとし(そのほんとうのことに近づくとは何を意味するのかについて考え)、その面白さを分かち合えたら、こんなにうれしいことはありません。(中村)
※ スタッフ全員の専門分野・研究テーマはこのページで一覧することができます。大学院進学に関するQ&A もご覧ください。