大学院授業[2017]

岩本通弥 日常学としての民俗学:近代、文化的実践、日常生活という問題(Sセメスター)

近代、文化的実践、日常生活という問題を、柳田國男『明治大正史世相篇』(講談社学術文庫、1993=1931)と、ハリー・ハルトゥーニアン『歴史の不穏』(こぶし書房、2011)とを、合わせ読むことで考えていく。この課題は『歴史の不穏』の副題でもあるが、戦間期における日常性への問いの同時並行的発生というハルトゥーニアンの文脈(「日常性」思想の壮大なパノラマ)に、『明治大正史世相篇』や柳田國男、また民俗学が、どのように位置づけられるかを検討する。


岩本通弥 日常学としての民俗学:近代、文化的実践、日常生活という問題 (Aセメスター)

前学期に引き続き、近代、文化的実践、日常生活という問題を、柳田國男『明治大正史世相篇』(講談社学術文庫、1993=1931)と、ハリー・ハルトゥーニアン『歴史の不穏』(こぶし書房、2011)とを、合わせ読むことで考えていく。この課題は『歴史の不穏』の副題でもあるが、戦間期における日常性への問いの同時並行的発生というハルトゥーニアンの文脈(「日常性」思想の壮大なパノラマ)に、『明治大正史世相篇』や柳田國男、また民俗学が、どのように位置づけられるかを検討する。ハルトゥーニアンに関しては、『近代による超克:戦間期日本の歴史・文化・共同体(上・下)』(岩波書店、2007)もテキストにすることもある。

 

福島真人 モデル、理想、プロトタイプ‐具体の思考をめぐる科学技術人類学

かつて構造人類学で名をはせたレヴィ=ストロースは、『野生の思考』の中で、いわゆる未開の思考というのが、具体物を媒介として対象を思考するのに対して、科学的思考というのは、抽象的な概念操作を中心にモノを考えるという議論をおこなった. しかし近年の科学技術への社会的アプローチ(social studies of science and technology)や科学技術人類学(社会学)等が明らかにしてきたのは、こうした対比には問題があり、我々の日常でも、あるいは科学的な実践でも、具体的なものや事例が持つ働きの中心性は、ますます認識されている.レヴィ=ストロースが有名にした「ブリコレール」(なんでも屋)という言い方が、単に日常生活のみならず、多くの専門的な現場(医療や科学技術的な現場もふくむ)でも、同じく重要だとうことと関連してくる.

  こうした発展を踏まえ、本演習では、現代社会における「具体の思考」のさまざまなあり方について、文化人類学(社会学)/科学技術への社会的研究(STS)等を中心にしつつ、検討することを目的とする. ここで特にフォーカスをあてるのは、日常的なさまざまな文脈で我々が問題を対象化するときに援用される、モデル/範型/プロトタイプといった枠組の重要性である. これらの言葉が示すのは、多様な具体的現実を我々が考える際、我々がその一部を代表的なものととらえて、それを前提に話を進める、そうした思考方法である. これは認知心理学者ロッシュがいう「プロトタイプ理論」という考え方であり、鳥という言葉をきくと我々はいかにも鳥らしい鳥を考えるが、ダチョウやペンギンはすぐには思い浮かばないという議論に関係する.

こうしたプロトタイプの重要性は、日常生活から科学技術にいたるまで、あらゆる傾向がある.たとえば、我々のからだそのものが、多くの事象の理解のモデルとなることは、歴史や文化人類学でよく知られている. また社会人類学では、最初に詳しく研究されたアフリカの親族が「アフリカ・モデル」として、他の民族の親族理解の暗黙の前提になった. アメリカ社会学では、シカゴ市が都市研究の具体的なモデルになったことが知られている.臨床医はしばしば、自分が最初に診た患者をモデルにして、残りの患者を推測する. さらに生物学では、いくつかの生物をモデル生物(マウス、大腸菌、シロイズナズナ、酵母菌その他)とし、そこから生物を考える. 

こうした具体的な「モデル」の採用は、研究分野に限らない. そしてそれが政治や社会に対して、大きな影響を与えることも少なくない. たとえば我々の日常的なコミュニケーションにおける食い違いは、話者が考えるプロトタイプの微妙な違いによって生じることも少なくない. 人が民主主義について論じる場合、何を具体的にイメージするかで、その議論の内容が大幅に変わってくる. また独立後のインドネシアのように、国家で認定される宗教がイスラームをモデルにしたために、他の宗教が困惑したというケースもある. またしばしばエンジニアは、成人男性をユーザーのモデルとするために、現実の製品が多くの人にとって使いにくいものになるといった批判も多い.

本演習では、こうした「モデル、範型、プロトタイプ」といった思考のあり方を、現代版の「具体の思考」として、その働きと限界を比較研究することを目的とする. 


福島真人 実験が作る社会、実験をつくる社会ー文化/社会における革新と創発性の文化(科学技術)人類学的研究

我々が生きる社会では、ミクロ/マクロのさまざまなレベルで多くの新たな試みが行われ、社会や文化が次々と変化していく.こうした試行錯誤による新たな価値、モノ、視点の提供はイノベーションや技術革新といった形で呼ばれるが、その背後には日々繰り返される実験的な試行がある.こうした「実験」は、大学の実験室のような特殊な空間での、毎日繰り返される作業だけを示すのではなく、社会や文化のいたるところで繰り返される、ちょっとした工夫、改善から、国家やそれを超えたレベルにおける、壮大な社会実験のようなものまで、さまざまなレベルがある.あるいは、アートやファッションにおける新たな試みなども、ここでいう実験に含まれる.アジアの農村から、イノベーションの最先端の現場まで、様々な形の日常的な実験が、われわれの生活を少しずつ変化させていく。

この演習では、こうした文化人類学的な、日常的実践のレベルから、国家や社会全体にかかわるマクロのレベルまで、こうした実験的な試みというのがどういう性質をもち、どういう条件でそれが可能で、何がそれを阻害するが、あるいはさらにそもそも実験が必要なのかといった問題を、文化人類学、科学技術社会論、あるいはアートをめぐる諸考察を利用して比較検討するものである.新たな価値を創設するには実験的試行は不可欠であるが、他方実験は失敗のリスクも大きく、多大なコストがかかる場合もある。それゆえ実験的試行を避け、他者の模倣に専心するというのも、一つの戦略ではある。このように、社会や文化を革新する動きの背後には様々な要因が隠されており、この演習では、それらを多様な観点から比較、観察する。こうした関心の背後には、科学技術をめぐる議論の中で、日々行われる実験室での実験のようなものが、決してそうした象牙の塔に限定されたものではなく、より広く社会/文化と共有さ環境が変われば、できなくなることもある.こうした諸条件をさまざまな事例を中心に比較検討するのが本演習の目的である.

 

箭内匡 自然と身体の人類学——生物学圏へのアプローチ

文化人類学は本来、人間をめぐる生物学的アプローチと密接な関係を持つはずの学問だが、「文化」「社会」の概念が強調される中で、この関係は長い間、見えにくくなっていたところがある。この授業では、今日的な文脈において生物学的思考にアプローチする中で、文化人類学の新たな可能性を考えてみたい。背景としては、近年の文化人類学が「文化」「社会」の枠組みから後退し、自然や身体、環境や感覚といったテーマを近年、積極的に取り上げるようになってきたことがある。もう一方で、生物学圏の諸分野(神経科学、進化学、微生物学、生態学など)における近年の研究の中で、今日の文化人類学とも反響しあうような、様々なアイデアが生まれてきていることも指摘できる。もちろん「生物学圏」というのは広大な領域である。この授業の目的はあくまでも「アプローチする」仕方を考えることであって、特定の分野を専門的に掘り下げることではない。具体的には、生物学および文化人類学・民族誌の素材のほか、哲学・映像などの素材(英語、日本語)も混ぜ合わせながら、「文化人類学の新たな可能性を考える」という作業が中心になる。


箭内匡 情動(emotion/affect)をめぐる人類学

情動(emotions)の問題は、古典的には、「文化とパーソナリティ」や心理人類学の中で扱われてきた。そこでは、喜びや悲しみ、欲望や怒りなどが社会文化的要因とどのように関わるかが問題となっていた。しかし、今日ではこの枠組みはいくつかの側面から拡張せざるを得ないだろう。第一に、今日では、文化的なものを生物学的なものと緊密に結びつけることを目指した「生物文化的」(biocultural)な視点がより強調されてきており、こうした考察の方向性は、神経科学や動物行動学・霊長類学などにおける近年の考察の発展とも関係付けることができる。第二に、今日のグローバル化した世界において「社会」・「文化」と呼ばれるもの自体が根本的に変質する中で、「文化的なもの」自体を根本から再考する必要、また、それをメディアの問題と関係付けつつ考える必要が認識されてきた。第三に、とりわけジル・ドゥルーズの哲学の影響のもとで、人間存在そのものをより深い場所から捉え直し、emotionsよりもaffects(スピノザのaffectus)を問題とするような人類学的考察が広がってきた。emotions とaffects、文化的なものと生物学的なもの、メディア、哲学(また、映画)。ある意味で雑多なテーマを扱いつつ、「情動をめぐる人類学」について一定の展望を獲得してゆくことがこの授業の目標である。


田辺明生 現代インド論--歴史人類学的視点から

本授業は、大きく変わりつつある現代インドの様相を理解するために、どのような新たな視角と枠組が必要かを歴史人類学的視点から検討する。現在のインドの動態を支えるメカニズムを理解するにあたっては、グローバルな文脈と国家レベルの変容をおさえながら、現代インドがつくってきた独自の発展のかたちに着目する。そして地域固有の〈生態環境〉のなかで発展してきた〈政治経済〉〈社会文化〉の構造と歴史的変化を長期的な視野において検討する。そのうえで,インド独自の発展径路やデモクラシーのかたちを総合的視野から明らかにし、それが現在の政治経済社会の活況そして問題といかに結びついているかを把握することを試みる。それは、欧米の発展モデルとも東アジアのそれとも異なる「南アジア型の発展径路とデモクラシー」のありかたを探る試みとなるであろう。


田辺明生 宗教と世俗主義の人類学

近年、「公共的な世俗/私秘的な宗教」という二分法に対して疑義が呈されている。従来は公共圏から排除されていた「個人的なるもの」や「宗教的なるもの」が社会・政治的な重要性を帯びつつあるなかで、そもそも世俗性や公共性とは何かが問い直されているのである。本授業では、主要な理論的著作と民族誌を参照しながら、宗教と世俗主義をめぐる問題について論じていく。宗教と世俗主義をめぐる問題は、植民地主義、文化政治、アイデンティティといった広い問題と不可避的に関わっている。宗教と世俗主義の問題を軸としつつ、現代世界および現代人類学を問い直すことを試みる。


渡邊日日  [研究内容はこちら]

言語人類学入門

人間の様々な実践において言語コミュニケーションはとりわけ大きな意義を有している。言語に対してはその意義の広がりと同じくらい多様なアプローチがあるが、言語人類学はそうしたアプローチのうちの一つである。文化/社会の中に埋め込まれ、個々の実践のなかでその姿をあらわすものとしての言語のどのような特徴を、文化人類学の下位分野たる言語人類学は明らかにしてきたのか。Laura M. Ahearn, Living Language: An Introduction to Linguistic Anthropology, second edition (West Sussex: Wiley Blackwell, 2017)を指定教材として、しかしそれに束縛されることなく、言語人類学の諸論点について講義し、人類学の領域において言語・ことばに関する考察の重要性を確認していきたい。具体的なトピックとしては(順不同で)、言語イデオロギー、言及指示性(indexicality)、モダリティ、言語獲得、社会化、言語と思考、ことば共同体(speech community)、多文化状況/主義(multilingualism)、リテラシー、行為遂行性(performativity)、言語とジェンダー、人種とエスニシティ、言語復興などである。Ahearnの本の購入は必須ではないが、買い求めても損はしない本である。

文化人類学と哲学の間

人類学が「つかず離れず」の「微妙な」関係を伴ってきた最大の隣接領域は哲学だろう。「高貴なる野蛮人」モデルは多くの批判的思考の源泉の一つであったし、「百科全書」は、当時の学問と技術をめぐるフィールドワークの結果でもあった。未開社会に関するデータはマルクスに史的唯物論の物的証拠となり、その功罪の冷静な吟味がいまようやく可能になったレヴィ=ストロースは言うまでもなく現代思想の立役者の一人であった。一時期の流行の対象としてではなく、様々なる意匠の一モードとしてでもなく、哲学を人類学にとっての真剣な「討論相手」とするために、本ゼミでは主にTurner, Stephen P., & Mark W. Risjord, (eds.) [2007] Philosophy of Anthropology and Sociology, Amsterdam: North-Hollandを輪読していく。扱う章(トピック)については受講者との微調整もありうる。また、受講者の人数によっては、受講者の研究発表を、本ゼミの文脈に定位して組み合わせることも考えている。なお本ゼミでいう人類学とは、主に定性的データに立脚して具体的な民族誌的考察を通過した(実証主義的とまで言う必要はないにしても)人類学のことを指すゆえ、個々の民族誌を読むことを好んでこなかった受講者には「ツマラナイ」ゼミになることは大いにありうる。逆に、ある細部にこだわることがどういう風に議論の地平を拡張していくか、そうした「開眼の現場」を現出させてみたいと思っている。

博士論文ライティングアップセミナー

現在、民族誌の形で博士論文を執筆中の大学院生を対象に、執筆にあたっての「足場(scaffold)」を提供するゼミである。初回は導入的講義を行い、参加者の進捗と並行させる形でゼミを開き、「アイデアの孵卵器」となることを目指す。論文を執筆する過程での〈読み—聞く〉ことの重要性を再認識する場としたい。

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関谷雄一  [研究内容はこちら]

社会開発の批判的検証:文化人類学の視点から

文化人類学は植民地主義と伝統文化の消失を導きかねない社会開発の現象に対し早くから警告を発し、批判をしてきた。一方、20世紀の中盤を超えたあたりで、徐々により良い社会開発の在り方を探るためにこの学問の知見が応用・活用されるようにもなった。その取り組みは開発実践に相対的なものの見方と、住民参加型の姿勢とノウハウをもたらした。20世紀終盤には、開発を脱構築して現象そのものを批判的に見つめる視点が登場する。今世紀初めには、開発現象を、より現場目線から見つめ直して取り組むための考察と実践を導く。本授業では主として社会開発と文化人類学とのこれまでの関わり合いを踏まえつつ、開発現象に対してこの学問がどのように取り組んできたかを考察する。さらに余力があれば「分配の政治学」や「自然の領有」に関する最新の研究に関しても考察を広げてゆく。

適正技術論再考

1973年にイギリスの経済学者エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハが出版した『スモール・イズ・ビューティフル』のなかで、彼が途上国への開発の在り方を説くときに使用した「中間技術」の概念は、やがて「適正技術:Appropriate Technology」として議論され実践されてゆく。適正技術は、1970-80年代において開発論、あるいは近代科学技術批判の中で論じられ、これに関する開発実践も盛んに行われたが、2000年代以降、近年ではあまり論じられなくなってしまった。『適正技術と代替社会』を著した田中直によれば、それでも適正技術論は今日的文脈において、これからの世界で必要とされる新しい技術体系への現実的な手がかりがある。本講義ではこうした適正技術をめぐる議論と開発実践、その周辺の議論、これからの可能性について先行研究に基づき概観する。

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津田浩司 [研究内容はこちら]

共同性の人類学

「共同体」なるものが、「市民社会」の鏡像として、閉鎖的かつ同質的なものとして構築されたものであることが指摘されて久しい。それは、後者が「自由意志を持つ個人」を前提に据える一方、コミュナルなものがオリエンタリズム的機制により前者に追いやられたという事態を批判する論である。この指摘を踏まえ、「共同体/市民社会」、あるいは「構造/主体」などの安易な二元論に陥らないためには、自立した個人像を無批判に前提としないことはもとより、高度に抽象名詞化された「共同体」を所与化するのではなく、具体的な行為実践とそこから可能となる共同性の諸相を再検討する作業が必要になる。こうして対面関係を基盤とする相互行為へと着目することは、社会制度やイデオロギーによる統制・拘束された人間像を、よりダイナミックなものへと開くことに繋がるだろう。本講義では、これらのテーマをめぐって、主に文化人類学の関連論文を読み進めつつ参加者と討議をする。

宗教人類学を読む

「人類学において宗教がどのように論じられてきたかについて、教科書的に編まれた論集を読みながら種々の分析視角を養う。特に、具体的な民族誌的論文を読むことで、個別的事例から人類学的にいかなる知見を導き出せるかについて考えていきたい。

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宮地隆廣 [研究内容はこちら]

比較の方法論

比較は物事の特徴や因果関係を特定する上で必要な方法であるが、その適切な手順に関する研究が近年急速に発展している。この授業では、その最新の成果に関する英語書籍を読み、その内容を踏まえて、学生自身の研究に応用する可能性を検討する。

トランスナショナルな社会運動と国内政治

トランスナショナルな権利要求運動が国内政治に与える影響について、その多様な帰結や分析・記述の手法を、ラテンアメリカを事例に検討する。

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名和克郎  [研究内容はこちら]

人類学的翻訳再考

社会文化人類学の学問的営為において重要な位置を占めてきたものの、主題的に論じられることの意外に少なかった「翻訳」を巡る諸問題について、21世紀における社会文化人類学者及び言語人類学者の諸議論の読解を通じて再検討する。

人類学的集団範疇論入門〜南アジアを中心に

南アジアの事例を中心として、民族、カースト、親族集団、エスニシティ等に関する社会・文化人類学及び隣接諸学の様々な議論を整理しつつ紹介する。具体的には、親族、民族境界、カーストに関する古典的な社会人類学の議論、構造主義以降のカーストに関する議論の展開、植民地状況、国民国家、及び「先住民」等近年グローバルに流通する概念との関係といった問題を扱い、「民族」概念の有効性を巡る議論につなげたい。

博士論文ライティングアップ・セミナー

文化人類学コースにおいて博士論文を書き上げるためのセミナー。フィールドワークを終え、博士論文を準備中、或いは執筆しつつある文化人類学コースの博士課程の大学院生のみを対象とする。発表者が博士論文のドラフトの一部を発表し、セミナー出席者からのコメントを受けることで、論文完成へとつなげることを目的とする。

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藏本龍介 [研究内容はこちら]

(文化現象論)

(文化人類学演習II)

アジアの多くの地域においては、宗教(キリスト教、イスラーム、仏教といった制度宗教や、土着の民間信仰)が、政治・経済・社会の各領域に深く根ざしている。それゆえにアジア地域が抱えている諸問題を把握し、その解決を考えるためには、宗教についての理解が不可欠である。そこでこの授業では、諸文献の講読を通じて、アジア地域の諸問題(民族問題、領土問題、貧困問題、環境問題、人権問題など)を、宗教を切り口として分析することを目的としている。具体的には、アジア地域における宗教と社会の関係を論じている古典的業績(ギアーツや石井米雄など)や、現代アジアに関する民族誌を取り扱う。受講者からの文献の提案も歓迎する。

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森山工     [研究内容はこちら]

「方法」としてのフィールドワーク

フィールドワークによって質的データを収集するということは、文化人類学という学的営為の中核をなしている。かつて岩田慶治は、フィールドワークというアプローチを、「(1)とびこむ、(2)近づく、(3)もっと近づく、(4)相手の立場に立つ、(5)ともに自由になる」こととして提示した。では、このプロセスを「方法」として位置づけようとしたとき、フィールドワークのどの部分が「方法化」に馴染み、どの部分が馴染まないのか。これを検討する中で、むしろ「方法化」に馴染まない部分を自覚的に取り出すことによって、文化人類学的なフィールドワークと、そこで構築される他者理解の一つのありようについて考察する。

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